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佐藤文則写真展


作者の撮影ノートより

新たな試み

2010年1月12日(現地時間)、ハイチでマグニチュード7.1の地震が発生した。翌日から、マスコミの問い合わせと取材に追われた。やっと被災地の首都ポルトープランスに到着した時には、地震からすでに3週間が過ぎていた。
 通常の機材は、デジカメ2台とレンズ2本。だが今回の取材では念のために、中盤カメラと白黒フィルム30本を用意していた。到着が遅れたことで、普段とは異なるアプローチが必要かもしれないと、考えたからである。
ポルトープランスの通りを埋め尽くした瓦礫の多くは、すでに撤去されていた。だが、そのせいか被災した街並みの様相を、鮮明に見て取ることができた。復興が進めば、被害を受けた建物はすべて取り壊され、平地ばかりの街並みに変わる。その前に、被災の様相を記録として残して置きたかった。気がつくと、滞在半ばで、30本のフィルムは全部取り終えていた。

最も印象に残ったこと

「母親はあの辺りで亡くなった」
エマニュエル(51歳)は小石を拾うと、目の前にある瓦礫の山に投げた。小石が落ちた箇所には、コンクリート製の大きな屋根がまるで滑り落ちたかのように、前のめりに崩れていた。母親の遺体は地震から1ヶ月が過ぎた後も、下敷きになったままだった。
母親(80歳)は、ポルトープランスの中心部にある市場街の一画で、過去40年の間、タバコの露天を営んできた。地震で、後ろの建物が倒れ、下敷きになったのだ。
エマニュエルは、直ぐに現場に駆けつけたが、母親に覆いかぶさった大きな瓦礫を人力で撤去することは、不可能だった。また、母親の隣で露天を営んでいた女性たち十数名も、そこで亡くなった。
エマニュエルは母親の死を悟った後も、毎日のように倒壊現場に通っていた。重機による瓦礫の撤去作業が始まれば、遺体の回収は無理でも、遺品か最後の別れができるかもしれないとの思いからだった。瓦礫の山をじっと見つめるエマニュエルの後ろ姿に、無念さが漂っていた。

作品エピソード

主を失くした家に、一本の観葉植物が置き去りにされていた。家具類はすべて持ち去られていたが、処置に困ったのだろう。鉢は壊れていたが、茎は真っ直ぐに伸び、何枚もの葉を、太陽に向かって大きく広げていた。それは、苦しい状況のなかでも懸命に生きる人びとの姿のようにも見えた。
マグニチュード7.1の地震は、死者約23万人以上、負傷者約31万人、全壊・損壊した住宅は約30万戸以上など、甚大なる被害をもたらした。しかし、地震から10ヶ月が過ぎた今でも、復興はあまり進んでいない。家を失った130万人以上が、1000箇所以上の被災民キャンプで、今も不便な生活を余儀なくされている。

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