メディカルネットワーク

ヘルスケア

2人の友達K

Konica Minolta Medical Network No.268 No.1-2006

金澤  右

金澤 右
岡山大学医歯薬学総合研究科
放射線医学 教授

名字の関係から、学生時代の友達は、頭文字にKの付く人間が多い。入学して、まず友達になるのは名簿順に近い連中で、気が合えばそのまま長い付き合いになることもある。そのうち、2人の友人Kは、今でも気になるKだ。

1人目のKは、高校時代の同級生だ。僕の通っていた高校は、地方の公立進学高校で、その県は当時全県一学区制をとっていたし、他県からの入学も認めていたので、ずいぶんいろいろなところから「秀才」が集まってきていた。僕は、県庁所在地に存在する国立大学附属中学の出身で、いってみればシティボーイ?だったが、Kは、だいぶ離れた周辺の町出身で、おまけに入学式から坊主頭で登場した。なぜか。それは、彼が、入学が決まるや否や野球班(部ではなく、班というのが伝統)に入班していたからである。その高校の野球班は、県内で最も伝統があり、意外に強く、そこで野球がしたいがために受験勉強をした中学生もいたほどだ。カントリーボーイ?Kは、まさしくそのたぐいであった。

人懐っこいKとは、すぐに友達になったが、ふらふらしている僕とは違い、Kは、憧れの班活動に入学当初より忠実に励んだ。何せ、授業が終わるや否やグラウンド目掛けて走り出さないといけないのが、野球班員の伝統だ。なぜなら、1年365日1日として欠かすことなく、監督が授業終了前からグラウンドに立って彼らを待っているからである。監督はすでに老人ともいえる整形外科医で、その高校のOBだったが、県内高校球界の名物男で、生涯の全精力を高校野球につぎ込んでいた。一にも二にも猛練習、非力な体力を補う知的野球がその監督の野球コンセプトであったような気がするが、記憶に自信はない。

とにかく、Kは、ひたすら白球を追っていた。僕は、サッカー班に入ったが、サッカー班の班室は、野球班の所有する室内練習場に間借りしており、いわば店子のような存在だった。だから、Kとは、毎日顔を合わせていた。僕は、Kの野球スタイルが大好きだった。彼は、基本的には2番、2塁手だったが、実に着実でなおかつクレバーな野球が出来るやつで、すべてのメンバーの信頼を勝ち得ていた。結局、野球に明け暮れた3年間だったが、県大会ベスト8が最高で、念願の甲子園には行くことが出来なかった。そして、学業成績は、野球の猛練習のおかげで終始底辺を歩んでいた。

2人目のKは、医学部の同級生だ。彼とは、入学して1週間のうちにとても仲良くなり、ついには、 2年生の時には同じ下宿に入るに至った。東京出身で、彫りの深い美男子だったが、何より彼の良いところは、正義感の強いことで、彼の歯切れの良い標準語で語られる理想の医療論に僕は聞きほれたものである。成績も優秀だった。彼は、在学中に熱烈な恋に落ちて、彼なりの信念を貫き学生結婚をして、学生最後の年に長男が生まれた。僕らは何人かの仲間で、自分たちの子供が生まれたように喜んだ。家族という単位を作り上げたKとその奥さんのことを、こいつらは、僕なんかよりずっと大人だな、と感心したのを思い出す。Kは、卒業すると麻酔科医となり、大学で活躍し、米国にも留学した。僕は、卒業して11年後に母校の放射線科医となったが、その頃は、卒業同期の連中が大学に結構たくさんいて、時々集まっては、飲んだ。そんなある日、Kは僕に「どうせ大学にいるのだから、トップを目指す」と真顔で言った。「トップって、教授のことかい?」と聞き返すと、「そうだ、おれが、教授になって医局を改革する」と答えた。

さて、その後の2人のKは、どうなったか。1人目のKは、甲子園の予選敗退が決まると、猛勉強を開始して、一浪の後、有名な私立大学の法学部に合格し、弁護士を目指した。司法試験には何回か落ちたが、最終的には合格し、弁護士となった。今は、某テレビ局の「行列のできる法律相談所」という番組で一番左端に座っていて、笑わないふりをしている。

2人目のKは、僕とその話をした数年後に大学病院の医者をやめて、健康食品の販売を奥さんと始めたが、今は、ダイエット相談所を開業し、「医学博士」が相談に乗ることを売りにしているようだ。そこは、店となっているので、医業をしているわけでなく、店長は、僕らの祝福を受けて生まれた父親譲りのイケ面の長男が務めているらしい。

いろいろな人生がある。そして、多くの人生は計画されたとおりには進まない。2人のKは、ともに僕の親友だったが、いろいろな意味で違った人生を歩んだ。でも、過去の2人を思うとき、昔のままでいてくれるのは、1人目のKだ。だから、今でも昔の気持ちで会える。2人目のKにも会うことはあるが、昔の気持ちには戻れない。いい年をして、こんな甘っちょろいことを書くのも気恥ずかしいが、2人目のKにも、目がきらきら輝いていた昔のKのままでいてほしかった。いい腕の麻酔科医なのだから、せめて、昨今の麻酔科医の不足を補う仕事をしていてほしかった。

もちろん、人生を決めていくのは、自分自身であり、人にとやかく言われる筋合いではない。2人の Kには、他人の人生を語った僕を許してもらいたい。2人のことを書きたくなるのは、ある意味で今でも2人のKが好きだからだろう。さて、3人目のK、すなわち僕の人生はこの2人のKから見たら、どう見えるのだろう。気になるような、ならないような。

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