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メディカルネットワーク
No.262 No.1-2003
「Noと言える日本人」として

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「Noと言える日本人」として

Konica Minolta Medical Network No.262 No.1-2003

平敷淳子

平敷淳子
埼玉医科大学放射線医学教室
主任教授

Vietnam 戦争の激しかった1964年の4月から翌年1965年の3月まで、私は当時立川にあった米国空軍病院のインターンとして働いていた。はじめてアメリカ医学の実践の洗礼を受けた場所である。当時から航空機に興味のあった私は、F4戦闘機が立川基地に着陸するとその周囲の雰囲気からみてはいけない、しかし見たいなにかがそこにあると仕事の合間にも気もそぞろになったことがあった。戦闘に飛び立つ前の機体には覆いがかけられ、基地のフェンスには暗幕が張られ、外からの視界が妨げられていると余計に中を覗きたくもなったが、もちろん厳戒態勢のもと、だれも近づけないようになっていた。この戦闘機がVietnamのどこで、どのようなことを展開していくかを考える前に航空機としての興味しか示さなかった自分の幼さが、今になって悲しく思い出される。

Vietnam戦争終了直後にはライシャワー元駐日大使の著書『Beyond Vietnam』を読み、POW(Prisoner of war)の本国への帰還を目の当たりにしたりしてみても、ごく最近の新書版『ヴェトナム戦争』ほど歴史を顧みるのに適した読み物はなかった。改めて 1960年半ばにFEN(Far East Network)から聞こえてきていた重々しい響きの“Saigon”が“General Ky”が、その言葉の重みが実感できた。戦争の行方を見極めていたVietnam人。思想と政策との狭間で悩んでいたVietnam人。ひたすら戦っていたVietnam人。なぜ、私はこの時期、なにに対しても“No”と言えなかったのだろうか? あるいは“Yes”or“No”の意思決定に関与するチャンスもなかったのであろうか? あるいは私には“No”どころか“Yes”と判断できる英語力がなかったのではないか?

在米期間が長くなり、さらに帰国後も英語で物を考え、英語で議論し、国際学会の仕事をしはじめると“No”と言わなければならない場面に多く接し、気がついてみると“No”と言っている。国際学会とはいえ、学会の政策や方針はある国主導型になってしまう。理事の数も国別にバランスがとれている訳ではない。親日家もいれば、そうでない人もいる。本来、感情移入してはいけない科学の分野でも、国際学会としての利害が絡んでくると、途端に豹変してしまう人もいる。日本的に膝を突き合わせ、ゆっくりと話をつめていくというプロセスがとれないときも多くある。“Yes”or“No”の即答を teleconferenceで求められるときも多い。そのteleconferenceも日本人の都合の良い時間帯ではない。真冬の午前2時や夜の11 時から2時間続くこともある。しかし眠いとは言っておられず、納得できぬこと、日本人として受け入れられないことには断じて“No”と言う思考過程を素早く言葉にしていかなければならない。英語は私にとって“No”と言いやすい言語である。ドイツ語も同様であろう。しかし、日本語は……?

放射線科医、特に診断医が“No”ときっぱりと臨床他科の医師に言いたいときはたくさんあると思う。しかし曖昧な言葉のやりとりの内に、相手の不事理な要求を飲み込んでしまってはいないだろうか? 日本の医療を良くするためには、まず医師が人間として成熟することではないだろうか? 成熟した人間関係が成立すれば、日本語の“No”がもっと言いやすくなり、“No”と言われた人は恥じ入る社会になれるのではないでしょうか?

Vietnamは今「豊かさ」への夜明けとしていろいろなメデイアに取り上げられている。かつて米国のグリーンベレーの一員として従軍していた放射線科医もつい最近Vietnamを訪れている。戦争中、彼は自分の立場を考えても「この戦争でアメリカは負ける」とはっきりと言ったことを覚えている。それは胸までドロ沼につかりながら、なり振りかまわぬベトコンの底力と、靴を履き戦地でも「アメリカ」を求めていた自分たちの姿との差を知ったときだという。

修羅場をくぐり抜けてきた放射線診断医として、なり振りかまわず“No”と言わなければならないときには“No”と私は言い続けたい。日本人として日本のために。

松岡 完『ヴェトナム戦争』中公新書 2002

Edwin o. Reischauer『Beyond Vietnam』Vintage Books

坪井善明『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』岩波新書2002

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