
集落にひとつ佇む教会、それは人からも時からも忘れられたかのように存在しています。地図に載っていたりいなかったり、郵便局で尋ねても誰ひとり知る人がいない。それでも道を行くと、まるでかくれんぼでもしているのか、うっそうと茂る森の奥に、海を目の前に切り立った崖の下に、それはあるのです。
旅の目的地を、教会と決めたある時から、目的地にたどりつくまでに、予想もしなかった様々な発見や出会いに巡り会うことになりました。教会というとキリスト教に属するもの。信仰のありなしや、宗派は人によって異なるのはあたりまえですが、わたしはその存在を、もっとわかりやすく言い換えると、『人々が集う場所』、と考えています。

『人々が集う場所』はたくさんあります。井戸端会議という言葉があるように、下町の路地奥の井戸には水を汲みに人々が集まり、世間話をしたのです。
ヨーロッパでは、パティオという小さな広場、そこには木陰があってベンチがあって、遅い訪れの夜を前に誰ともなく訪れ、のんびりと語らう空間があります。

日本ならではの銭湯も、お風呂に入ることだけが目的でしょうか。そこでは、一日の疲れを落とすと同時に、交流の場としても成り立っています。そういった場所が、いまでは失われつつあり、また求める人もいなくなっていきているような、さみしく思われる現実があります。
日本の南方の島を旅していたとき、ひとつの集落にほぼ必ずといっていいほど、教会と土俵があることに気づきました。島での神聖な儀式を執り行うとき、皆が集うのです。
それは素朴で質素なもの、土俵の土は海風にさらされ、湿気を含んだ空気は雑草に生命力をあたえ、決して質がいいとは言えないコンクリートの壁は、剥がれた塗料の下に灰色の顔を覗かせていました。立て付けの悪い扉を押して、教会のなかに入ると、ついさっきまで人が居たような気配が漂っていました。




![Vol.01 鹿児島県 奄美大島編[ 前編 ]2009.08.07](/plaza/kiki/column/img/hm_column_0801.gif)




